やあやあ、まあ聞いてくれよ。今日はNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で話題沸騰中の戦国武将、前田利家について、おじさんがたっぷり語ってあげようじゃないか。

東京国立博物館では今まさに特別展「百万石!加賀前田家」が開催中で、加賀前田家に伝わる名宝が一堂に会しているんだ。歴史ファンにとっては垂涎ものの展示だよ。招待券プレゼントの締め切りが5月5日(火)と迫っているから、気になる人は急いでくれ!

「犬千代」と呼ばれた少年が、百万石の大名になるまで

前田利家は天文6年(1537年)12月、尾張国の荒子村(現在の愛知県名古屋市中川区荒子)で生まれた。父は荒子城主の前田利春で、利家は四男にあたる。幼名は「犬千代」——犬のようにたくましく育ってほしいという願いが込められていたんだね。

城主の跡継ぎではない四男の利家は、1552年、15歳のころに織田信長のもとへ小姓として仕え始める。小姓というのは、今でいえば秘書兼ボディーガードみたいな立場だ。信長のすぐそばで働けるのは、それだけで大きなチャンスだったわけさ。

この頃の信長は「尾張のうつけ者」と呼ばれていた若き日。利家もまた、派手な身なりで城下を歩き回る「傾奇者」だったと伝えられている。似た者同士だったんだろうね、信長は利家をたいそう気に入り、やがて赤母衣衆(あかほろしゅう)の隊長にまで取り立てた。赤母衣衆というのは、信長に近侍する精鋭10名からなる特別部隊のことだよ。

そして永禄元年(1558年)、22歳の利家は12歳のまつと結婚する。のちに「内助の功」で知られる芳春院、つまり「お松の方」だ。大河ドラマ「豊臣兄弟!」では菅井友香さんが演じているね。

追放・浪人・復活——前田利家の「しくじり」と逆転劇

順風満帆に見えた利家の人生だが、1559年(23歳)に大失態を犯す。

信長お気に入りの茶坊主・拾阿弥(じゅあみ)と諍いになり、なんと利家は彼を無断で斬り殺してしまったんだ。激怒した信長は即座に利家を追放。気性の荒さが完全に裏目に出たわけだ。

このとき利家の助命を嘆願したのが柴田勝家と森可成だったというから、人間関係の複雑さが窺えるよね。

追放された利家は妻子を荒子城に預け、単身で放浪生活を送る。しかし彼はあきらめなかった。信長の許しを得ようと1560年の桶狭間の戦いに無断で織田軍へ加わり、槍を振るって奮闘する。それでも許しはなかなか得られなかった。

転機が訪れたのは、斎藤家の豪傑として名高い足立六兵衛を討ち取ったときだった。この功績を信長がようやく認め、追放から約2年後の1561年、利家はついに帰参を許されたんだ。

おじさんの豆知識コーナー:「槍の又左」の由来

おじさんに言わせれば、前田利家の異名「槍の又左(やりのまたざ)」は戦国時代のニックネームの中でも最高にかっこいいものの一つだよ。「又左」は「又左衛門」という官職名からきていて、利家の通称「又左衛門」から取られたんだ。

利家の槍の使い方は特殊で、当時一般的だった短い槍ではなく、6〜7メートルにもなる大身槍(おおみやり)を自在に操ったと言われている。「姉川の戦い(1570年)」では浅井家の重臣・浅井助七郎を討ち取り、「石山本願寺との春日井堤の戦い」では敵中に突っ込んで味方を救出する活躍を見せた。この武勇から「日本無双の槍」とまで称えられるようになったんだよ。

賤ヶ岳の「決断」——柴田か、秀吉か

1582年(天正10年)の本能寺の変で信長が横死すると、織田家中では柴田勝家と豊臣秀吉が後継を巡って争い始める。利家にとってこれは地獄のような選択だった。

勝家は「おやじ様」と慕った恩人。秀吉は幼い頃から家族ぐるみで付き合い、「俺の一番の友」と語らせるほどの無二の親友——その二人が真っ向から対立したんだ。

1583年の賤ヶ岳の戦いで利家は柴田軍側で参戦したが、戦況が不利と見るや途中で戦場を離脱し、事実上の勝家見捨てを選択する。これが歴史の大きな分岐点だった。

この決断の裏には、秀吉との長年の友情だけでなく、豊臣体制の中でより大きな領地・権限を得られるという冷静な計算もあったとも言われているよ。

加賀百万石の誕生

賤ヶ岳の戦い後、利家は秀吉の傘下に入り急速に加増を重ねる。

  • 1581年(45歳):能登一国の大名となる
  • 1583年(47歳):加賀国の領地を加増され、金沢城に入る
  • 1585年(49歳):佐々成政が降伏し、加賀・能登・越中の三国合わせて百万石を達成

こうして「加賀百万石」という、徳川将軍家に次ぐ日本最大の外様大名の礎が完成したんだ。

晩年——豊臣五大老として家康と対峙

1598年(慶長3年)、豊臣秀吉が病に倒れ、利家は秀吉の遺児・豊臣秀頼の後見人に指名される。同年、豊臣五大老の一員にも列せられた。五大老とは、徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・小早川隆景(のち上杉景勝)からなる最高権力者集団だ。

その中で利家は家康への対抗軸として機能し、秀頼を守る砦になろうとした。しかし体はもう限界に来ていた。

1599年3月3日、享年62歳で前田利家は息を引き取る。彼の死後、豊臣政権の均衡は一気に崩れ、2年後の1600年には関ヶ原の戦いが起きることになるんだ。

おじさんの豆知識コーナー:ドラマで描かれない「殺人事件」の真相

ちょっと聞いてくれよ。最近、ダイヤモンド・オンラインの記事で「信長の愛をめぐる殺人事件」として取り上げられたエピソード、知ってるかい?

大河ドラマ「豊臣兄弟!」では当然サラッと流されているが、利家が拾阿弥を殺した事件の背景には、実は信長の「寵愛」を巡る複雑な感情があったと指摘する歴史研究者もいるんだ。戦国時代の武将と小姓・同朋衆の関係は、現代人には想像しにくい濃密なものだった。利家が「笄(こうがい)を盗まれた」と激怒して斬り捨てたのも、単なるケンカ以上の何かがあったかもしれない——このあたりが歴史の面白いところだよ。

「豊臣兄弟!」でのドラマと史実を比べながら見ると、また違った面白さがあるんだよ。

まとめ——波乱の生涯が生んだ「加賀百万石」

どうだい、前田利家の生涯、なかなか波乱万丈だろう?追放・浪人・恩人の見捨て——普通なら何度も終わっていたような人生を、利家は槍の腕と持ち前のしぶとさで乗り越えていったんだ。

「槍の又左」として戦場に生き、「そろばん大名」として領地経営にも長けた前田利家。武力と経営力を兼ね備えたこの人物が、戦国時代を生き抜いて加賀百万石を築いたのは偶然じゃないさ。

今まさに東京国立博物館の特別展「百万石!加賀前田家」では、そんな前田家ゆかりの名宝が一堂に会している。大河ドラマと合わせて楽しめば、歴史への理解がぐっと深まるよ。

さあ、君も前田利家の生涯に、もう一度思いを馳せてみてくれよ!おじさんは待ってるぞ。